テレビドラマ「3年B組金八先生」シリーズを手がけた脚本家の小山内美江子(おさない みえこ)さんが2024年5月2日に亡くなったことが分かりました。
小山内美江子さんといえば、「金八先生」や大河ドラマ「徳川家康」「翔ぶが如く」などの代表作があります。
そんな小山内美江子さんは、若い頃は映画監督を目指していたそうです!
それがなぜ脚本家になったのか、気になりますよね?
そこで今回は、
- 【金八先生】脚本家・小山内美江子(94)死去。
- 小山内美江子は若い頃に映画監督を志望!
- 小山内美江子が現在の脚本家に至るまでの経緯!
- 小山内美江子の死去に対しての世間の声
こちらのテーマを調査したので紹介します。
【金八先生】脚本家・小山内美江子(94)死去。
脚本家 小山内美江子さん死去 大河「翔ぶが如く」など手がけるhttps://t.co/OMSOQ1rzr7 #nhk_news
— NHKニュース (@nhk_news) May 10, 2024
テレビドラマ「3年B組金八先生」シリーズを手がけた脚本家の小山内美江子さんが2024年5月2日に亡くなったことが分かりました。
10日、テレビドラマ「3年B組金八先生」シリーズを手がけた脚本家の小山内美江子さんが今月2日に亡くなったことが分かりました。94歳でした。
TBS NEWS
小山内美江子さんの死因については、
小山内美江子さんのご冥福をお祈りいたします。
小山内美江子は若い頃に映画監督を志望!
ドラマ「3年B組金八先生」などの脚本家、小山内美江子さん死去 94歳https://t.co/oKeWddqYsi
— 産経ニュース (@Sankei_news) May 10, 2024
横浜市出身。映画スクリプター(記録係)を経て脚本家に。
「3年B組金八先生」は社会的現象を巻き起こし、25年に及ぶシリーズになったが、平成16年、がんに倒れ、第7シリーズ途中で降板した。
「金八先生」や大河ドラマ「徳川家康」「翔ぶが如く」などの代表作で知られる脚本家の小山内美江子さんですが、若い頃は、
小山内美江子さんは、1951年に神奈川県鶴見高等女学校を卒業し、映画製作に参加するために東京スクリプター(記録係)協会の会員となりました。
ですが、当時は、戦後直後で女性が映画監督として認められることはなく、その夢を諦めざるを得ない状況でした。
それでも、この業界で活躍したいという強い思いで、10年間も記録係として努力し、精力的に働き続けたそうです。
小山内美江子さんの映画に携わりたいという強い意志が感じられますよね!
小山内美江子が現在の脚本家に至るまでの経緯!
小山内美江子が現在の脚本家に至るまでの経緯を紹介します。
脚本家になった理由は、
小山内美江子さんは、鶴見高等女学校を卒業後に映画のスプリクター(記録係)となります。
志望は映画監督でしたが、当時「女性では映画監督は無理だ」と言われ断念。
それでも映画やドラマに携わりたく、監督の隣にいられる脚本家になったそうです。
小山内美江子さんは本当に、映画やドラマが好きなんですね!
小山内美江子の死去に対しての世間の声
小山内美江子さんの死去に対しての世間の声を紹介します。
凄い脚本でした。
— やすとんき (@tonki12yasu17) May 10, 2024
ご冥福をお祈りいたします。
素晴らしい脚本で良い作品をありがとうございました😢心より御冥福をお祈りいたします😭🙏
— まささん (@6pedhxsnpGDArQx) May 10, 2024
小山内美江子先生
— CANNON-77D (@77dCannon) May 10, 2024
「3年B組金八先生」を生み出してくれて本当にありがとうございました
これからもずっと金八先生シリーズを愛して何度も見続けていきたいと思います pic.twitter.com/9dyycrQOk4
このようにX(Twitter)では、脚本に対する感謝の気持ちと、追悼の声が多数ポストされていました!
今回は、小山内美江子さんの脚本家に至るまでの経緯を調べてまとめました。
小山内美江子さんのご冥福をお祈りいたします。
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